家族 | 築紡|根來宏典

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2015年4月27日(月)

家族


4月20日(月)7時11分、母が他界した。享年69歳。

派手なことをする母ではなかったんで、慎ましやかな家族葬とした。
父と姉と俺と弟。父の弟、母の姉二人、その子供達や孫たち。

おじさん達は、心の支えになってくれた。おばさん達には、いろんな世話をしてもろうた。
棺守りのため、斎場に宿泊もしてくれた。ほんま心強かった。
おじさん、おばさんの子供らも一緒に泣いてくれた。
その反面、その孫達は心和ましてくれた。父は、その孫達の顔を見ると笑顔になる。

家族葬のつもりやったけど、母の親友には連絡した。
俺も我が子のように可愛がってもろうてたし。
直ぐに駆けつけてくれた。「難儀やな、難儀やな」と繰り返し。
外に出歩くのが好きではない母を、あちこち引っ張り出してくれた親友。
懐かしい話を聞いたら、涙が溢れてきた。
「姉妹みたいなもんやから」と、お通夜や告別式、火葬場にも来てもろうた。

仲ようしてもろうた近所の方にも声掛けた。
救急車で運ばれてるの見られてれるし、棺桶運ぶのも見られるやろうし。
俺は、近所の人のことは知らない。
18才で家を出た後、二十歳の時に引越ししてきた土地だから。
俺よりも母のことを知っている近所の人。思い出話を聞きながら、一緒に泣いた。

弟は、発達障害者。うちの母は、立派に育てた。
母が亡くなって不自由するやけど、なんとか生きていけるやろ。
弟が勤めている会社の人たちも沢山来てくれた。ええ会社で働いてるな。
俺もほんま嬉しかった。みんな来てくれて、ありがとう。

姉の旦那さんは、よう気の利く人。母も大好きな人で、よう自慢しておった。
亡くなった連絡があり、俺は直ぐに駆けつけた。直ぐと言っても、東京からは遠い。
いつも帰省の時は、父か姉が泉南の和泉砂川駅まで迎えに来てくれる。
実家の最寄り駅まで行くと、遠回りになるし、そこからも歩く距離ではないから。
さすがに、その日は父も姉も迎えに来れる状況ではないはず。
時間は掛かるけど、俺も自力で帰るつもりやった。
でも気を利かした義兄が迎えに来てくれた。会社を抜け出して。
お通夜や告別式でも、気の利いたフォローで支えてくれた。ほんま、ええ人や。

お通夜は、家族葬やったのに、、、
あれよあれよ、沢山の人が集まってくれた、席が全然足らんかった。
ほんま、ええ人らが集まってくれた。お母ちゃん、みんな来てくれたで。
お香典は、固く断った。でも知らんうちに、花が増えている。
まぁ、母は、花が好きやったから、ええかな。喜んでくれてるかな。
母は、優しかったし、心が広かったし、暖かかった。
母同様、心の温かい人ばかりが、集まってくれた。
母にとっては、家族のように大切な人達。ほんま、みんなに感謝やな。

火葬の火入れは、喪主(父)と親族のもう一人が行んやな。
俺は18才で家を出た(もう24年も経つ)人間やし、一番近くに居たんは姉やし、
火入れは、姉にやってもらおうと思うた。けど、無理やった。それは酷やな、、、
父と俺がやった。ボタン押すの辛かったよ。

母の顔を見たら、色んな思いがこみ上げ、涙が溢れてくる。
でも庵主さんの言葉が心に響いた。「たら、れば、は言うたらアカン。
これからお母ちゃんは極楽浄土に向かうんやで。足を引っ張ったらアカン」
合掌。南無阿弥陀仏。

母は、美しい人やった。最後もいつも通りの美しい顔やったし、何より笑顔やった。
あかん、こんなん書いてたら、涙が止まらん。

玄関先には、母が育てた花が咲き誇っていた。種から育てたそうだ。
亡くなった翌日、父が水やりをしていた。父には、まだまだ元気でいてもらいたい。
これから料理の勉強を始めるらしい。母が持っていた古びた料理本を大切に抱えて。

これは、何を育てようとしてたんやろ。

庭先には、エンドウ豆が沢山実っていた。母が育てたエンドウ豆。好きやったな。

根來宏典